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zoom RSS 懐かしのラジオ深夜放送の全盛時代、その中のオールナイトニッポン

<<   作成日時 : 2017/04/04 16:49   >>

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 時代は移りゆく、日本のいい時代は過ぎてしまった、というのは、ある
いはイヤミに聞こえるかもしれないが、事実、そのとおりだと思える。日本
は何より若く、若者は平和を希求していた。政治の反動の危険は常にあ
ったが、まだまだ戦争の記憶は生々しく、戦争の愚かしさは国民が何より
もよく知っていた。高度経済成長は続き、全国に海岸を次々と埋め立てて、
新産業都市、工業整備特別地域が造成され、工場が次々と操業を始めた
。そこには公害問題、環境破壊という重大な問題が発生した。だが日本の
活力はすごかった。・・・・・・大阪万博1970年の頃が一つのピークであった
ような気がする。

 そんな若い日本、現在からは想像もできないほど活力のあった日本、
ある時期くらいからラジオ(その後ラジカセ)が若者に欠かせない必須の
アイテムとなり、その深夜放送、DJによる深夜放送は中高生、また大学
生の最大の楽しみ、悩みをぶつける場、生活の場でさえあった。深夜
のラジオ番組の歴史も長いが、今はどうなっているのか、もうスマホ、ま
てネットの時代でほとんど若者は聞いていないのでは、ただトラック運転
手など夜間走行の人たちを相手の「歌うヘッドライト」や「走れ歌謡曲;は
多分健在ではないだろうか。

 私が最初、ニッポン放送を聴き始めたのは1965年、昭和40年、まだ
オールナイトニッポンも始まっていなかった。若山弦蔵さんの番組が
楽しみだった。センスある番組だった。しばらくして、1967年、昭和42
年くらいだったか、最初の頃はアナウンサーの方と本当の音楽的な
DJ,の方たちばかりでその後の芸能人DJはいなかった。でもこれが良
かったと思う。芸能人の世界でない、同じシロウトの純粋な世界、という
気がした。亀淵さんなどは制作部のディレクターでアナウンサーでさえ
なかった。

 オールナイトニッポン草創期のDJたち

 左から亀渕昭信、梶幹雄、斉藤安弘、糸居五郎、高崎一郎、高岡
遼一郎

 
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 初期の頃,「カメとアンコウ」は人気爆発だった、亀渕昭信さん、斎藤
安弘さん、高崎一郎さん、糸居吾郎さん、・・・やや遅れて高嶋秀武さ
んや、今仁哲夫さん、天井邦夫さん、・・・・・歴代DJは多いけど、印象
に残るのはこの方達かな。その後は芸能人DJに移行していき、視聴
者の若者が本当の兄貴、兄貴分みたいに心の障壁がなく、交流でき
るという雰囲気は失われた。

 文化放送には土居まさるさんという、いわば天才、その後のビッグ
ネームもいた。テレビでも大活躍された。早世は惜しまれる。

 ところでフリーのDJとして地方局や地方向け番組などで主に活躍
された、慶応大学出身の山崎士郎さんは、あえていえば、唯一交流の
あったDJとしてである。フリーのためハガキは局でなく自宅(東京都大
田区)に送る、必ずそうだったが、・・・・・ということが変わっていた。
でも山崎さんにはがきを読んで頂き、私の病気を気遣う全国の多くの
方々から励ましの手紙、はがきを頂いたのはいい思い出となっている


 けど、・・・・そんな良き時代も過ぎ去ってしまった。リスナーの若者
と垣根のなかった、というか低かった、本当の兄貴のような相談でき
るDJなどもはやどこにもいないだろう。

 ある意味、若者が異常に多く、大学が少なかった時代、激烈な受験
戦争の時代、そこで生まれた深夜までの受験勉強、その孤独を慰め
てくれる深夜放送のラジオ、ただただ懐かしさと同時に心の痛みを覚
えるものだ。

 深夜放送ラジオ、草創期の名DJだった、亀渕昭信さん(ニッポン放送
社長当時)

 
  
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 ★ 亀渕昭信氏へのインタビュー(社長在任当時)1999年

 1969年、昭和44年10月18日、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」
(午前1時から午前5時まで)土曜日担当のパーソナリティーとして亀渕
昭信氏(当時27才)がデビューした。

 『私は当時、ニッポン放送の制作部に属するディレクターでした。本職
ノアナウンサーではそもそもなかったんです。ただ音楽には詳しくて、職
場での私の話しぶりを聞いた上司が「あいつのキャラクターからして面
白そうだ。一度やらせてみよう』というわけで最初オールナイトニッポン
の電話リクエストの番組を担当させられました。ま、社員を使えば安上
りという気持ちもあったはずです。そのうちパーソナリティー兼プロデュ
ーサーの高崎一郎さんが別番組を初めてオールナイトを離れるという
ので私が土曜日担当に指名されたんです』

 1967年、昭和42年10月3日にスタートしたオールナイトニッポンは、高
校生を中心とした若者に絶大な人気を得た。

 『特に土曜日深夜は人気が高くてね、大変な重責だと気が重くなった
くらいです。すでに活躍されていた今仁哲夫さん(当時28才)、糸居五郎
さん(当時45才)立野デスク上にはリスナーからのハガキが山のように
積まれていました。「おれにこれほどのことができるかな」と不安もあり
ましたが、別にビビってはいませんでした。この人達と肩を並べられる
よう、頑張りたいと思いました)』

 亀渕昭信さんが登場した頃。「パックインミュージック」TBSや「セイ・
ヤング」文化放送など若者向けの深夜放送が人気パーソナリティー
を擁してしのぎを削っていた。

 『でもオールナイトニッポンがダントツでしたから他局のことは気にな
らなかったですね。むしろ同じ局内のパーソナリティがライバルでした。

 アンコーこと斉藤安弘は若者の相談、悩みに答える兄貴のうな存
在。春日部のテツこと今仁哲夫はとにかく、しゃべりまくる。糸居さん
は音楽に造詣が深く、ジャズから音楽全般、ーオールラウンドな専門
家、と個性派揃いでした。

 だから私はバカ話を中心に、フォーク、ポップスを流した。そうしたら
あっという間にハガキが山ほど来ました。ライバルでしたが、いがみ
合ったことはなく、切磋琢磨の関係で仲は良かったですね。

 1969年、昭和44年、私とアンコー出だした「水虫の唄」が大ヒット、
21万枚売れました。その印税代わりに会社が二人をアメリカに出張
させてくれました。日本の人気DJというので無効のラジオ局にも出演
しまいsた。でもアメリカでは深夜ラジオを聞く人が少なく、なぜ日本で
は人気なのかと質問されました。受験戦争、学歴社会を説明するう
ちに、「僕らのやっていることってすごく日本的なことなんだ」と痛感し
ました。』

 だが1971年頃から徐々に深夜放送は人気が低下していった。亀渕
さんは1973年、昭和48年にチーフプロデューサーに。1999年にニッポ
ン放送社長に就任した。

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