つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS ペギー葉山さんを偲ぶ、「南国土佐を後にして」と第二の故郷、高知

<<   作成日時 : 2017/04/12 18:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
ペギー葉山さんが亡くなられた。その歌手としてのキャリアはジャズ、
アメリカン・ポップスと例外的に降って湧いたともいえる「南国土佐を後
にして」の超大ヒット、これは例外的でもこの「南国土佐を後にして」で
永遠に名前を残すことになったのである。もし、これがなければ、かく
まで偉大な歌手としての存在感はなかったと思われる。とはいえ、
ペギー葉山さんを語る場合、そのジャズ・ポップス系のキャリアを語ら
ないと半分以下しか語っていないのだが、それでも歌手キャリアにお
ける「南国土佐を後にして」という例外にして偉大な業績を抜きにして
語ることもまた出来ない。まさに「南国土佐を後にして」とペギー葉山
の運命の出会いこそ、日本歌謡史の大事件であった。(写真:高知
市街を見下ろす高台でのペギー葉山さん)同時にペギー葉山さんに
とっても歌手人生における決定的な転機ともなった。

 戦前から高知県出身の兵士たち、特に「鯨舞台」の兵士たちが出征
して望郷の歌として歌った「南国節」、それを戦後、土佐電鉄の武政英
策が「南国土佐を後にして」としてレコード会社に持ち込み、テイチクか
ら鈴木三重子とマーキュリー・レコードから丘京子で「南国土佐を後に
して」という題名で、日本調歌謡としてリリースされたが、さしたるヒット
にも話題にもならなかった。だがテレビ放送が進展し、NHKでも地方局
が次々と開設されるに伴う、開設記念として「歌の広場」という番組が
その地方のゆかりの歌をゲスト歌手が歌うという内容を含んで放送
された。1958年、昭和33年、NHK高知放送局開設記念番組としての
「歌の広場」ディレクターの妻城良夫はゲストのペギー葉山に「南国土
佐を後にして」を歌わせることに決めた、・・・・・ポップス系歌手を自認
していたペギー葉山は参考の鈴木三重子のレコードを見せられて「妻
木さん、何か勘違いされているんじゃないですか」と抵抗し得ざるを得
なかった。

だが、演歌系、日本調の実力歌手,特に鈴木三重子のように民謡
をベースとするヒット曲ももつ実力人気のある歌手が歌っても一顧だ
にされなかった「南国土佐を後にして」がペギー葉山歌唱があれほど
人の心を魅了し、大ヒットとなり得たのか?ペギー葉山がジャズ、ポッ
プス系歌手だったから?何もジャズ調やポップス調でペギーが歌って
いるわけでは毛頭ない。他のポップス系歌手が仮に歌っていても全く
ヒットしなかったことは確かだ。・・・・それはペギー葉山の歌手として
の、まさしく魅力、個性、、実力である。限りない望郷の念をこれほど
みずみずしく歌い上げる歌手は他にいなかったはずだ。高知での
最初の歌唱ですでに類を見ない、といってよいほど人の心を惹きつ
けたペギー葉山である。ポップスが「南国土佐を後にして」に新しい
生命を吹き込んだ、というより「南国土佐〜」がペギー葉山に秘めら
れていた日本風な演歌的な素質を開花させた、という方が真実に近
いと私には思える。

 結果として、ペギー葉山による「南国土佐を後にして」はテレビ放送
が生んだ最初のヒット曲、さらには戦後最大のヒット曲となったのであ
る。

 高橋圭三さん

 『当時、NHKが地方放送局を新たに開局する場合、そのお祝い番組
として「私の秘密」と「歌の広場」がお呼びいただくわけです。この二つ
は一つの番組としてセットになっていました。NHK高知放送局開局とし
ての番組「歌の広場」のゲスト歌手がペギー葉山さんでした。で「歌の
広場」のディレクターというのかチーフプロデューサーというのか、妻木
良夫さん、この方を抜きにして「南国土佐物語」は語れないと思うんで
す。この方は熊本放送局時代、九州地方で埋もれていた歌、「五木の
子守唄」などを発掘されたという人でした。妻木さんは高知での開局
記念番組の下見として出かけて「南国土佐を後にして」を発見された
のです』

   ペギー葉山と妻城良夫、妻城なくしてペギー葉山の「南国土佐
を後にして」は生まれ得なかった

 
画像


 この歌を発掘した妻城は東京に帰り、ペギー葉山に開局記念番組
でこの曲を歌ってほしいと頼んだのだが、・・・・・

 ペギー葉山さん

 『鈴木三重子さんが歌う「南国土佐を後にして」の重いSP版レコード
を見せていただいたんですが、・・・・・当時の私はね、ジャズ、アメリカ
ンポップスの歌手としてキャリアを重ねていたんです。そこにもってき
て妻城ディレクターが、「ペギーさん、こういう歌を歌ってください」と言
われて、・・・・・私はびっくりして「私がこれを歌うのは違っているんじゃ
ないですか」と云って、いったんその鈴木三重子さんのレコードはお返
ししたんです。それほど私には自信がもてない歌でした。どんな気持ち
で謳っていいのか、分からなかったんです』

  
画像


 『土讃線で、ススにまみれながら高知に向かいました。高知って本当
に遠いなと思いました。でもその間中、妻城さんがずっと「南国土佐」を
歌ってくれないかと、口説きどうしでした。私は何とかしてこの歌から逃
れられないかと画策していました。でも、そこまで熱心に言ってくださる
なら、「一つ条件を出さしてください,本番でアトラクションでなら歌います
から」と申しました。でも高知についてハイと台本を渡されたら、やっぱり
本番にしっかり入っていました』

 高橋圭三さん

  
画像


  『本当にペギーが、機嫌よく歌ってくれるか、そりゃ、気になりまし
たよ。テレビは嘘をつきませんから、表情がそのまま写ってしまうで
しょ、いやいや歌っているというのでは、司会者として、これは喜ば
しいことじゃない、でも意外や意外、ニコっとして、これがやっぱり
プロなのかな、・・・さわやかにスーっと歌ってくれたんです』

 
画像


 ペギー葉山さん

 『歌い始めたらそれまでざわめいていたお客さんがシーンとな
ってしまって、・・・・「これは受けなかったのかな、やめておけばよか
ったかも」と思ったりしたんですが、で「土佐の高知の」というところか
ら潮が引いていたようなお客さんがうねりを挙げて押し寄せてくる
ように被ってきて、熱い熱気がかぶさってくるような感じに変わった
んです』

 開局記念番組で「南国土佐を後にして」を熱唱するペギー葉山さん

 
画像


 高橋圭三さん

 『翌日、高知の街に出てみたら、もうペギーさんの話でもちきりなん
ですよ、もう手放しなんです、「ぺぎーさんの南国土佐を後にしては
素晴らしかったわね」・・・・・・そこで私は思いました。テレビの力は
本当に凄いな、と改めて実感させられたんです』

 高知でのあまりの反響の大きさで翌年、昭和34年5月レコード化
され、さらに映画化もされた。戦後最大の歌謡曲としてヒット曲とな
たのである。

 ペギー葉山さんの高知への感謝

 『私は東京生まれの東京育ちで故郷というものがないんですね。で
も高知ではもう40年以上経っているのに、「ペギーさん、おかえりな
さい」東京に帰る時は「ペギーさん、行ってらっしゃい、こんどいつ帰
ってこられるんですか」と皆さん、本当に家族のように声をかけてい
だいて、・・・私の第二の故郷はまさに高知です、本当に有り難いこと
だと思います』

  高知の朝市を歩くペギー葉山さん

 
画像


   
   https://www.youtube.com/watch?v=sMrd02ncmOY

   
                NHK「歌はこうして生まれた」より

 

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
ペギー葉山さんを偲ぶ、「南国土佐を後にして」と第二の故郷、高知 つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる