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zoom RSS 葦原邦子の夫である中原淳一、少女芸術の比類ない創始者

<<   作成日時 : 2017/04/10 18:40   >>

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戦前の宝塚の男役として小夜福子と並ぶ大スターであった葦原邦子、なお
戦前は「退団」とはいわず「退校」といっていたから、宝塚歌劇団員でも生徒
と呼ぶ宝塚らしい、独特の慣習的表現ではあった。・・・・・・ともかく宝塚少女
歌劇を「退校」した葦原邦子の結婚相手は中原淳一であった。この中原淳一
は全く有名人なのだが、知らない人は知らない、という性格が強い有名人で
もある。そこでその知識を改めて整理しておくことは有意義では、と思う次第
です。何か「竹久夢二」の女性の絵と見紛うかもしれないが、その才能の広
がりは竹久夢二の比ではない。

宝塚少女歌劇を「退校」後、結婚した葦原邦子、その相手の中原淳一

  
  
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中原淳一の才能は夙に見出されていた。子供時代、つまり少年時代という
ことだが中原淳一は人表を作ることが好きだった。そのアートの原点が人形
作り、フランス人形的人形だから異彩である。それが偶然というべききっか
けで1932年、昭和7年に東京銀座の松屋において「第一回フランス・リリック
人形展覧会:中原淳一作」を開催。この展覧会を偶然見に来ていた「少女
の友」編集者から雑誌の挿絵を描くことを勧められた。中原の面接を行った
編集長の内山基は中原の絵を見るなり、竹久夢二、蕗谷虹児以上の才能
を見出した。内山は中原に挿絵のいいらいをすると同時に、他の雑誌への
仕事の依頼はすべて断るよう、中原に約束させた。

 かくして22歳の中原淳一は実業之日本社「少女の友」の表紙、挿絵、口
絵、付録などの制作に八面六臂の大奮闘となった。そのロマンチックで
詩的で夢を見るような、哀愁をおびた少女の絵は全国の少女読者から、
圧倒的な支持を受けた。そのあまりの熱烈な人気のため、編集部は企画
部に中原を参加させて、その新たなアイデアを求めたほどであった。

 世相は、大正期に起こった少年・少女向け雑誌の空前のブーム、雑誌の
間の競争は熾烈であったが、この中で内山の予測通り、中原淳一の描き
続ける少女絵は他の少女雑誌を引き離す最大の要素となって表紙絵まで
中原に任せた。

 絵を描くだけでなく雑誌の企画にも参画していた中原は、出発が巧緻を
極めたフランス人形づくりであったように、少女雑誌の重要な要素であった
当時の付録、があまりに紙細工の域を出ない魅力に乏しいものであること
に不満を抱いた。粗悪なボール紙で、同じ紙細工でももっと良心的な、か
わいいものが出来るはずと編集部に申し入れた。そこから、中原は付録の
企画についても全面的に編集部から任されることになる、これによって付
録の制作に乗り出した中原は雑誌付録の歴史を塗り替えるほどの変革を
もたらしたのである。

 中原の企画制作による「少女の友」付録「手芸の本」は中原の絵で彩ら
れ、手芸の多様な用品、スリッパやクッションの綿密な作り方の解説が施
されており、細かい小道具まで付いていた。単に日本趣味を遥かに超え
た西洋の魅力に満ちていた。

 全国の少女たちの熱烈な支持を受け続けた中原淳一であったが1940
年、昭和15年5月号を最後に「少女の友」から突然、忽然と姿を消した。
世は右傾化ファシズムの絶頂、中原の制作する西洋的な魅力に満ちた
諸作品、企画は「日本的、伝統的でない」とみなされて、官憲からの圧力
を受けたからであった。中原淳一は自らの信念を曲げて国粋主義に迎
合しようとは毛頭考えなかったのである。

 敗戦で大日本帝国消滅とともにその抑圧、圧迫も消えた。戦後は中原
の新たな才能の爆発の始まりであった。みずから「ひまわり社」を設立し
、雑誌「それいゆ」を創刊、ついで少女雑誌「ひまわり」も創刊。再び中原
の大車輪の活躍は再開された、もう戦前の表現思想への抑圧はなかっ
た。

  
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 少女文化、出版文化、芸術に残した中原淳一の功績は永遠に不滅で
ある。

 

 

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