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zoom RSS 北条政子の手箱、海に沈む、・・・復元再製は成ったのか

<<   作成日時 : 2017/03/04 12:13   >>

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 この世は永遠に失われた美術品、建築物、工芸品、・・・・・あまりに多い。
洋の東西を問わず。挙げれば切りのない話だが、規模の大きなもの、国内
となると昭和24年の法隆寺金堂の炎上、壁画消失もあるが、戦災で焼失し
た建築物、美術品、工芸品等はあまりに多い。「尾張名古屋は城でもつ」と
いわれ、日本最大級の天守閣を持っていた名古屋城が昭和20年5月14日
のB29による空襲で完全焼失したことは、その内部に取り外しのできない
貴重な絵画を数多く持っていただけに取り返しのつかない痛恨であった。
実際、空襲では数限りない貴重な建物が焼失、美術品も喪失した。岡山城
、いわゆる烏城も空襲で消失、というわけだが私の中学の担任がその場を
見ていたということで話によると、戦闘機の機銃掃射で天守閣が吹き飛び、
破壊されたということだった。

 さて、失われた美術品、しかも国宝級となると劇的なものとして北条政子
の愛用の手箱があげられる。

 1873年(明治6年)、ウィーン万博が開催された。開国間もない日本は、諸
外国に日本の存在感を示すため、このウィーン万国博覧会に大きな意気込
みをもって参加した。とはいえ、ほんの少し前まで江戸時代、近代産業など
まだ育っていない日本、万国博覧会として時代の先端を示すほどの産業も
なければ相応の展示品もない。そこで日本伝統の極めて精緻に技術です
でに世界的に定評のあった伝統的工芸作品を主なものとして出品展示され
たわけである。いくら出品展示が古いものでも、万博である以上、目的は日
本の伝統的な優れた工芸技術を世界に紹介し、輸出を促進して貿易の利
益を獲得して殖産興業、富国強兵の推進を図ることにあった。

 ウィーン万博に出品展示の品々は太政官政府が日本全国に布告を行い
、集められたものであった。

 北条政子の手箱なるものは12世紀後半の作とされ、1190年、源頼朝
が上洛した際に、後白法皇から頼朝に下賜されたと伝えられる。それが
頼朝から妻の政子に与えられ、政子の所有物となった。政子の死後、鶴
岡八幡宮が御神宝として保管してきた。

   ウィーン万博に出品展示された「北条政子の手箱」

  
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 その国宝的な価値を持つ北条政子の手箱がウィーン万博に出品展示
され、その終了後、日本に、当然、船で送り返されたのであるが、・・・。
 1874年、明治7年3月20日、香港から横浜に向かって航行していた船が、
伊豆半島沖で暗礁に接触し、沈没するという海難事故が発生した。その
船とはフランスの貨物船「ニール号」であった。ウィーン万博に出品展示し
た美術工芸品など貴重なものを積んで日本に向かう途中であった。ウィー
ン万博に日本が出品したものの一部であり、192箱に及んだ。その中に、
いわゆる「政子の手箱」も入っていたのである。

 翌年から日本政府はその沈没船とともに海底に沈んだ数多くの出品し
た美術工芸品の引き上げに着手した。翌年2月から始まり、潜水業者に
よって約三分の一は引き上げに成功した。一年近く海底にあったというに
もかかわらず、多くの漆器などの工芸品は堅牢を極め、漆塗りの工芸技
術の素晴らしさを再認識させるものであった、が遂に政子の手箱は見つ
ける
ことすら出来なかった。

 かくして至宝である「政子の手箱」は永遠に失われた、わけであるが、そ
の復元再製は保管していた鶴岡八幡宮のみならず、日本の多くの漆芸に
関わる人びとのまさに長年の夢であった。

 その復元再製に携わった奈良大学教授、灰野昭郎はその経緯につい
てこう語っている。

 「復元再製には資料が十分なくてはどうしようもありません。また比類
ない正確さが要求されます。だが幸いなことに手箱には十分な資料が
あったのです。巻物の手箱の絵図、さらにウィーンに送る前に文部省博
物館が撮影した写真、手箱の上下から取った拓本です。巻物の絵図と
は、江戸末期から明治にかけての漆芸家、柴田是真が嘉永年間にこの
手箱を修理した際に絵図として描いたものです。材質、寸法に至るまで
丹念に模写しています。こうした資料が復元への大きな力となったとで
す」

 実際の復元再製を鶴岡八幡宮は、1996年漆芸家で重要無形文化財
保持者の北村昭斎氏に依頼した。手箱の寸法は横37.9cm、奥行きが
27.3cm、高さ21.2cm、北村氏はまず石膏で試みに再製を行った。それ
を柴田是の絵図と比べてみたら全く遜色ない出来上がりだった。だが
本格的な再製となると絵図でも不明なことが出てきた。絵図と写真だ
けでは反対側の図柄や螺鈿模様は正確にはわからない。

 北村昭斎氏は独自で資料収集に乗り出した。そうしたところ側面の
四面の配置図も見つかって不明な部分はなくなった。拓本では絵図で
も不明確だっが上面の彫りが施された様子も判明した。木地は檜の
柾目材、螺鈿に用いる貝は沖縄の夜光貝1500枚が使用された。

  
画像


 
 北村氏によって再製された「政子の手箱」は1999年、源頼朝の没後
800年に当たるこの年6月10日から、鶴岡八幡宮で「源頼朝公展」の
開催に合わせて展示された。とうz年、「政子の手箱」は最も大きな注
目を集めたことは言うまでもない。

「沃懸地籬菊螺鈿蒔絵手箱(いかけじまがききくらでんまきえてばこ)」


 


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