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zoom RSS 治安維持法の日本、警察国家こそ日本会議、安倍政権の目的

<<   作成日時 : 2017/03/18 20:14   >>

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 戦前の日本、つまり明治維新以降の日本は国家原理、明治政府の
支配の正当性を記紀の記述の絶対化による現人神である天皇の近
代国家における主権をもたらした。平安初期の「延喜式」でほぼ完成
した古代天皇制国家の神祇制度は天皇家の祭祀がそのまま国家的
な意義を持つ皇室祭祀、皇室神道となり、主な神社は天皇家の直接
の支配を受けるに至った。明治の国家神道は幕末維新の神道精神の
高揚を背景に皇室祭祀、神道を基本として神社を再編成、国家管理
として古代の神祇制度の復活を試みたものである。

 というわけだが、イスラム原理主義の国家支配が現実の近代国家
に何をもたらすかを見ても分かるように、それは極度に寛容性に欠ける
思想弾圧、統制国家、すなわち警察国家にならざるを得ないのは理の
当然である。久米邦武ではないが、「祭天の古俗」、「文明以前の原始
的宗教」とされる神道を、いわば神道原理主義により、近代国家の統
治、政府の支配の正当性の根源とした以上は、そこから出てくるもの
は近代官僚制度、警察制度を駆使した不寛容の社会に帰着する以外
にない。特高による監視、弾圧の徹底こそは治安警察法、治安維持法
によって規定された戦前の明治以降の日本を象徴する社会病理である


国民の思想、表現、更に多くの自由権を抑圧し、宗教も国家神道の範
囲内、近代天皇制を踏み越えない範囲での各種の自由と厳重に制約
された国民生活、これこそが明治以降の戦前の日本の本質といって何
の言い過ぎはない。古代の復帰は単に近代に超警察国家の桎梏を生
みだしたに過ぎなかった。

★戦前(明治以降)の日本社会を支配した治安維持法をまず知ることが
日本会議、安倍政権の戦前回帰!のための改憲への画策の意図を知
り得るもっとも重要なポイントである。彼らは改憲で一体、何を目指して
いるのか、である。「美しい日本」、「伝統」、虚飾と言うべき白々しい言
葉が撒き散らされる。戦前は治安警察法、治安維持法、その挺子となっ
たのが国家神道(近代天皇制)である。

1925年、大正14年4月22日、「治安維持法」は公布された。

戦前の日本の国民の足に鎖をつけ、手かせ足かせにした治安維持法
の原本、大正天皇と摂政宮の後の昭和天皇の署名がある。

 
画像


戦前の日本を関しと弾圧、自由の制限の桎梏の社会とし他治安維持法
は警察権の異常な膨張であり、特高の跳梁により、国民の多くの自由は
すべて弾圧、取締の対象となって拷問が日常茶飯事と修羅場となった。
知るべきは治安維持法である。それは今現在の「共謀罪」という名の警
察権の際限もなく拡大という時勢と全く共通である。

治安維持違法第一条にはその取り締まる対象をこう規定している。

 『「国体」を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社
を組織し又は情を知りて之に加入したる者』

 労働運動など、都市部におけるプロレタリアート、無産階級が大量に
生み出されたという社会背景から新たな政治運動、社会運動、とくに
社会主義、共産主義運動を取り締まって弾圧するための法律が「治安
維持法」であった。

 それまでに大逆事件という、殆どが全く冤罪の被告に死刑判決を行
うという、近代天皇制の儀式も完遂し、さえあには1923年、大正12年の
第一次共産党事件、関東大震災直後の憲兵隊による無政府主義者、
大杉栄の扼殺など警察、軍組織による徹底弾圧、虐殺の構図は、この
治安維持法において完結したのである。

 「国体」とは「国民体育大会」ではなく、文字通りの「国体」である。明
治以降、戦前の日本を支配した言葉である。「国体」とは端的に言えば
天照大神、神武天皇以来の現人神である天皇が連綿とこの日本を支配
、統治する、という伝統的な国家構造である、・・・・・らしい。もちろん、あ
まりの非論理性、非科学的、非現実的な「思い込み」の産物である。
「国体」が近代国家において適用された姿が近代天皇制というわけであ
る。

  治安維持法はその後、日本のファシズム化の進展にともない、改悪
されてゆく。1928年、昭和3年、「国体の変革』を目的とする行為の最高
刑が「10年以下の懲役、または禁錮」から「死刑か無期自由刑」と重罰
化された。

 「国体変革」という言葉の不明確さから、拡大解釈が重ねられ、本来
は文化の領域である宗教まで治安維持法を口実にする弾圧、迫害が行
なわれるに至った。1935年の大本教襲撃、拷問安堵がその典型であろ
う。

 治安維持法は更に拡大解釈、規定の細密化が行われてゆき、1941年
3月、条文数も格段に増加し、解釈の拡大に明確な根拠が与えられるに
至った。もはや共産主義者、社会主義者だけではなく自由主義者、民族
主義者まで片っ端から治安維持法違反で逮捕拘禁されたのである。

 ★猛威を振るう「国体の変革」、「「協議罪、扇動罪」を口実にしての大
 弾圧、・・・・・記紀盲信の天皇制と共謀罪の併存していた治安維持法

 最初は京都学連事件というものがあった。治安維持法が制定された、
まさにその年、1925年、大正14年12月1日、京都府の特高は令状もなく
、京都帝大社会科学研究会の学生18人、同志社大の学生15人を検束
し、多量の書籍、文書を押収した。そのきっかけは特高の警察官が、11
月中旬、同志社大学構内で軍事教練反対のビラを発見したことだった。
そのビラを辿っていけばその真の組織に行き着ける、という思い込みが
あった。見込み捜査の典型であった。

 だが特高は何ら確たる証拠も掴めず、12月7日、検束した学生全員
を釈放した。特高の行動はその適法性が根本的に疑われ、学生、大学
を中心に激しい批判が噴出した。

 だがこの見込み捜査の特高の勇み足で収束したかに見えたこの事
件は司法省の入れ知恵で密かに仕立て直されて、1926年1月1日に
学生社会科学研究連合会の38名が逮捕されるに至った。同年9月18
日、全員が治安維持法て起訴された。第一条でなく、第二条、第三条
の協議罪、扇動罪を問われたのである。

これから制定されようとしている「共謀罪」は治安維持法の第二、三
上の協議罪、扇動罪と全く同じ性格を持つものである。


 1927年、昭和2年5月30日、京都地裁は全員に有罪判決を下した。
被告、検察双方が控訴した。

 京都学連事件の控訴審は1928年、昭和3年3月5日に始まったが、そ
の直後、小林多喜二の作品でも有名な、また岡田三郎の「三月変」も
あるが、・・・・全国で1600名が検挙されるという、「三・一五事件」が起
こった。その前年、再建された非合法政治集団の共産党への弾圧が
目的であった。京都学連事件の被告のうち、この共産党弾圧に連座し
たものもいて、刑が複合されて懲役7年の判決を受けた被告もいた。
 
 京都学連事件は特攻の早とちりを司法省が治安維持法利用、協議
罪など、の適用を入れ知恵して介入した。治安維持法の最初の小出し
であった京都学連事件に続く共産党大弾圧は治安維持法フル回転の
幕開け、、日本のファシズムの本格開始となったことは否めない。

 ここでも大新聞などは完全に政府の御用新聞に成り果てて、危険思
想を罵倒中傷する低級新聞に堕した。これはその後の数多くの弾圧で
も繰り返された日本メディアの悪しき本性であった。

 だが心ある識者もいた。木佐木勝は当時日記で

 「近頃は安政を思わせるほど暗い、重苦しい事件の連続だ。弾圧に
ツグ弾圧。石も叫ばんという状態だ。せめて新聞の報道だけでも政府
の発表を鵜呑みでなく、その裏面も伝えるべきではないのか」

 治安維持法はその中に「国体変革」と協議罪、扇動罪を含み、それが
フル適用されての弾圧事件はその後数限りなく起こった。暗黒の日本が
紛れもなく存在したのである。

 



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