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zoom RSS 日本民藝館は行く価値があるか、の前に知っておくこと

<<   作成日時 : 2017/03/17 20:03   >>

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  大原美術館など多くの文化施設の創設を行った大原孫三郎が創設
したとは一般に言われないが、その建築資金をポンと出したという点で
、創設に決定的な貢献をしたことは間違いない。「日本民藝館」は果たし
て行く価値があるかどうか、これはその人自身の問題である。基本的に
至って地味なものだけに、相応の造詣、趣味性が必要とされることは確
かだろうか。まずの由来を十分知っておくことが必要かもしれない。

 開館は日本が戦争に突入。軍国主義化のまさにその時代であった。
それは1936年、昭和11年10月24日、東京市目黒区駒場町に開設され
た。その創設は日本民芸運動の創始者と云うべき柳宗悦(当時47歳)
であった。その建物は柳自身の設計による木造、白壁塗り、瓦屋根の
威風堂々たる和風建築物であっった。白壁に共鳴したからでもないだ
ろうが倉敷紡績の大原孫三郎が10万円の資金を寄付したために可能
となった。

 柳の民藝館に向かう発想は陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司らと
相談し、高野山西祥院で「民藝」の展示館、美術館の構想を打ち出した
1926年、大正15年に遡る。それからすでに10年以上が過ぎていた。

 その開館時の与えた感銘は、多くの文化人が感激したことにも見られ
る。柳宗悦の才能と眼識がなければ絶対にこの世に生まれ得ない、ま
さに美の世界であり、今まで居場所を持たなかったものが初めて常住
の場所を得たという趣であった。

 民藝だから国宝などというものとは異次元である。だがそこに日本の
民衆の長年の美意識の結実が現れている、多くの文化人は柳の民藝
運動を支持し、大いなる誇りを抱いた。だが時代は戦争である。政府の
強権、弾圧は荒れ狂っていた。したがって一般の人々の関心はいたっ
て低調だった。

 「開館からしばらくは一般の入場者は一日、ニ、三人くらいなものでし
た。しかし三ヶ月に一度ほど、特別の企画展が行われ、その時は河井
,濱田らの仲間も集まって活発に議論が繰り返されました」

 柳宗悦は明治22年、明治政府の海軍創設、発展の基礎づくりに貢献
した柳楢悦の三男として東京で生まれた。そのキャリアでは何といって
も明治43年、志賀直哉、武者小路実篤などとともに雑誌「白樺」を創刊
、毎月、宗教、哲学、芸術などについての文章を寄稿した。その関心は
徐々に芸術、美術に向かい26歳でイギリスの画家ブレイクについての
本格的な研究をまとめて出版している。

 ところが柳を民藝に導いたきっかけとなる出来事があった。大正3
年、1914年、朝鮮陶磁器の大家となる浅川伯教がロダンの彫刻を見
たいといって柳を訪れたことがあった。この時、浅川は柳に朝鮮の李
朝の壺を贈った。この時、柳は贈られた李朝の壺を見てその深い美
に驚嘆したのである。そこで柳はその後、朝鮮に行き、浅川の弟であ
る巧のもとに長く逗留した。ここで柳の朝鮮陶磁器など美術への関心
は著しく高まった。それらら朝鮮の無名の工人が生み出したものであ
る。その美の前にはすべての偏見も持つことはなかった。

 無名の民衆、工人の作った日本各地に残された民藝品、それらこ
そ著名人によらない真の美d、価値ではないのか、と。

 柳の言葉「一国の文化程度は普通の一般の民衆がどれだけの
生活を得ているかで決まる。その最も著しい反映はその日々用い
る器具に現れる」

 昭和6年に柳は雑誌「工芸」を創刊、情熱的に全国の民藝品を続々
と紹介した。

 開館に当たっての展示物は主に柳が京都に住んでいた十数年に
おいて蒐集したものである。それらは貨車20両で京都から東京に運
ばれた。民藝品など歯牙にも懸けられない時代であった。下手もの
とさえ蔑称されていた。兼子婦人の収入で生活は維持され、柳の収
入はすべて民藝品の蒐集に使われた。

 無名の庶民、工人が作り上げた良心の結実である民藝品にその
国の文化程度がある、・・・・・・賛否もあるにせよ、その見識はまこ
とに得難いものがあったとはいわねばならないだろう。


 1933年、昭和8年、柳亭で

 左から村岡景夫、柳兼子、ブルーノ・タウト、柳宗悦、河井寛次郎、
バーナード・リーチ

 
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