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zoom RSS 夢野久作、いかにして入門

<<   作成日時 : 2017/03/13 21:11   >>

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夢野久作という、何も知らなければモダンなイメージを抱いてしまう
かもしれないが、多くの人、私も含めて夢野久作など読んだことはない
はずだし、その本も滅多にお目にかかれない。戦前の作家で,作家とい
ってSF的な内容、探偵小説、ややオカルトてきなもの、右翼人物批評と
か内容は多岐にわたる。父親が戦前の福岡県出身の大物右翼、杉山
茂丸、郵便局長でもあり、陸軍少尉、略称で夢Qと称されることもある。
熱狂的な読者層も持つらしいが、いかんせん現在は埋もれている。埋も
れてはいてもそこにあるのは、紛れもなく夢Qワールドである。右翼の大
立者の息子だからと、つい色眼鏡で見てしまうものだが、別に本人に特
にその傾向があったとも思えないし(多少はあっても)、好事家の読む作家
、マニア向けの作家と十分に言い得るだろう。最初の全集は三一書房か
ら出ているのだ。幻想小説というべきか、稲垣足穂と並ぶマニアックな作
家には違いないが、それにしても話題にならない。

 まず多少は予備知識、道案内をやってもらって夢Qに入っていくというの
も賢明というものだ。夢野久作について本を出している識者もいるがその
一人が鶴見俊輔である。実際、それらの本を買って読む、などというこ
とも、まずあり得ないだろうし。

 『夢野久作を読んだ14歳の時、私が学校を三度放り出されて、無籍者
だった。期待もなく、ある日「犬神博士」を読みはじめて、ひきこまれた。
そのアメリカに行ったので、20年、この本にふたたび眼をふれることはな
い。しかし、そのあいだ、いつも心にあった。

 夢野久作という名前も、その20年の間、一度も人から聞いたことがな
い。夏目漱石とか森鴎外のように、話題にのぼる人ではなかった。

 ・・・・・・初めて夢野久作を読んでから27年ぶりであった。こうして再会
し、私は夢野久作をふたたびとりあげてかんがえるようになった。

 夢野久作には、いくつかのアプローチがある。

 @「犬神博士」   私(鶴見俊輔)のように、学校ゆきづまりになった
  子供にとっての登り口


 A「氷の涯」  1930年代の少年紙芝居作家、加太こうじのように国境
脱出を夢見て実現するあてもない日々をおくったものに夢を与える作品


 B「ドグラ・マグラ」

 私(鶴見俊輔)の小学校時代の同級生で後に「虚無への供物」を書い
た中井英夫が中学一年で愛読していた。この二つの推理小説は、隠
れた糸でつながっている。私は中学生になる前に、同じ小学校を退校
していたので、中井との付き合いは40年近く途絶えていた。だから中井
から教わるこなく、「ドクラ。マグラ」も発表当時は読んでいない。

 C「近世快人伝」

 戦後私(鶴見俊輔)は、右翼思想の葦津珍彦とのつきあいができ、彼
の考える古神道に共感を持つようになった。右翼思想の系譜から夢野
久作を見ることが出来る。

 D 「いなか、の、じけん」

 近頃になってステーキ屋に努めている少女が、この作品がおもしろ
いという。一度ならず。私のこれまでの考えの及ばない見方であり、田
舎から見る見方である。私の友人の数学者の森毅も同じ意見だ。

 E「梅津只圓」

 福岡の能楽師の伝記である。葦書房版著作集(2001年完結)で読む
ことができる。能との結びつきから、夢野久作を読むという道がある。

 F夢野久作とその父親の杉山茂丸とその友、頭山満都の結びつき
から考える。これは久作の長男の杉山龍丸から教わった。アジアとの
関係で久作の作品を読む道もある。

 G博多言葉から久作の文体を考察するという道もある。そお面白さ
を知っていたのは戦前からの久作の愛読者、福永武彦だろう。

 H 「白髪小僧」

 その他の童話を手がかりとして、夢野久作の天皇観を考えることが
できる。今後の日本にとって意味のあることである。

 以上だが、E、F、G、Hは私は踏み込めない。これからの研究に
俟ちたい。

 夢野久作については幸いにも西原和海のように長年、実証的な研
究を続けてきた人もいる。これからの久作研究に新しい展開を期待し
たい。  』

 鶴見俊輔以上

 ★史上、最も衝撃的な小説      中野翠

 今まで読んだ中で最も衝撃的だった小説は何かと問われたら、それ
は夢野久作『ドグラ・マグラ』と答えてしまうだろう。

 大学時代のある日、同じサークルのS君が「凄い小説だ」といって、
古ぼけたハヤカワ・ミステリーを貸してくれた。夢野久作などという作
家などそれまで聞いたことすらなかった。ドグラ・マグラという、これも
意味不明な変な題名だったし、「・・・・・・・ブウウーンンンー」という冒
頭からすでに、たちまちのうちに、この幻魔術小説に引き込まれた。
読み終わった時は鮮やかすぎる悪夢を立て続けに十本くらい見たよ
うな、それまで経験したこともないような異様な気分になっていた。

 それは多分、1967年の初夏だと思う。とにかく三一書房から全七巻
の『夢野久作全集』が出版される二年前のことであった。あの頃、ー
60年代後半から70年代前半にかけて世の中にも私の中にも奇妙な
熱風が吹いていたと思う。その熱風というのは、社会科学的な言葉で
はどう説明されるのか分からないが、私にとって・・・・・・

 『夢野久作全集』はそういう熱風の中心に位置するようになっていた。
夢野久作ファンのM君が「子供が生まれて男だったら呉一郎、女だっ
たらモヨ子」と名付けよう、と言っていたこと。唐十郎「状況劇場」のなん
という芝居だったか忘れたが、短髪青年の約名が呉一郎だったことを
思い出す。

 あれから30年以上経ったが、私は未だに『ドグマ。マグラ』以上の
衝撃的な小説に出会っていない。基本的に軽妙な短編が好きという
私の読書傾向の中でも『ドグラ。マグラ』だけは突出して異様なもの
なのだ。いったいどこに惹かれるのだろうか。実を言うと今までに、た
った三回しか読んでいないのだ。好きだ好きだ、といいながら三回で
ある。

 私が『ドグラ・マグラ』に惹かれる一番のポイントは、猟奇ムードのと
ころでも、土俗臭の強いところでも、この世の最大の謎(時間とは何か、
私とは何か、存在とは何か、意義とは何か・・・・‥)を一編の物語とい
う体裁の中に放り込み、凝縮してみせたーいわば形而上学的な感触
にあったのではないかと。

 哲学者はそういう謎を論理の力で究明していくが、夢野久作は直感と
イマジネーションの力で謎そのものを一編の小説の中に閉じ込めてみ
せている。

 この世の謎と相似形の小説が(ドグラ・マグラ)なのだ。』

                           以上、中野翠

  夢野久作の再評価が始まったのは1960年代半ばから70年代初め
にかけてからだという。その頃の夢Qの鼻息はまことにすさまじいもの
があった。時代が久作を求め、久作が時代を動かしていたといっても
過言でなかった。2001年、やっと完結した『夢野久作著作集』全6巻は
、それは10年早ければ、その熱気が読書界に残存していたから、その
『著作集』を起爆剤として再び夢Q の鼻息を荒くさせたでろう、・・・・とも
いわれるが、もはやサッパリである。

 現在の夢Qの研究状況は停滞の一途であろう。そこで考えるべきは
夢Q、夢野久作の出身地、福岡である。70年代後半、福岡にはまだ、
久作ワールドの匂いが濃厚に漂っていた。一瞬、町の通りを玄洋社の
風が吹き抜けるのを肌で感じたともいう。さりながら、久作と切っても切
れない福岡の地で久作の人気はいたって低調である。研究者も皆無に
近い。そうした色も匂いも福岡の町から消え失せてしまった。変わらない
のは久作文学の福岡での不人気だけである。

 久作の文学世界を楕円、長円形に喩えるならその二つの焦点は福岡
と東京である。夢野久作人気の停滞は福岡の久作への無関心が大きい
要因だろう。

 夢野久作の独特の文体、「せつない、悲しい、痛々しい気持ち」という
具合の、平然とだらだらと幾つもの形容詞を重ねてしまう、くどい文体
。絵で言うと、輪郭線を荒々しく何重にも書き込んでいるようだ。あまり
洗練された文章ではない。だが久作では洗練の欠如が、かえって不思
議な効果さえ生んでいる。

 夢野久作はあらゆる面で多面的である。絵を描くことが好きで画家を
志していたほどであった。『白髪小僧』出版ではついに自らが扉絵や挿
絵を描いている。見事な描線であった。

 その意味で見事な絵と洗練を欠く文章のギャップがある。『ドグラ・マグ
ら』は久作自身がそのギャップの中で何かに憑かれたように書いた小説
である。

 ★ではなぜ夢野久作が忌避され続けたのか?

 これほどの個性的作品群を残した夢野久作はなぜ、死後、というか戦
後、一部の好き者には愛好されたが、結局は忌避され続けたといえる。

 その理由は、端的にいえばその親が玄洋社の杉山茂丸という右翼の
大立者という、右翼的臭味、潜在的でも顕在的でも右翼的臭味が戦後、
徹底して嫌われたからである。東京にはごく一部に紛れもなく夢野久作
マニアが入り。だが、・・・・・・出身地の福岡にはいない。地元に久作の
研究を本格的に行う者もいないし、まして記念館など誰も建てようとは
いわない。

 歴史的に福岡は町人の街、博多と武士の街、福岡に二分されていた
。明治以降、福岡の武士の文化をある意味、継承したのが玄洋社とさ
れるが、これが狂信的右翼、極右愛国集団と見なされて戦後が全否定
されたに等しかった。地元で玄洋社などという忌まわしい過去の遺物に
就いて誰も語ろうとしなかった。しょせんは玄洋社の流れを引き継ぐと
思われる夢野久作は好きこのんで福岡では誰も触れなかった。

 戦後の福岡が町人文化の継承都市として一大商業都市として発展
し、忌まわしい玄洋社の臭味を嫌ったのは否めない。それと関連の夢
野久作である。

 夢野久作は玄洋社系の新聞『九州日報』の記者として勤務していた
時代もあった。関東大震災の直後の東京に入り、復興する東京をルポ
して『東京人の堕落時代』を書いた。東京は「やりきれぬ享楽気分と堪
え切れない生存競争」の渦中にあって、「道徳を数字責めにして責め
殺し、芸術をお金攻め、実用攻めにして堕落させ」、「数字とお金とで
、動かせる死んだ魂の市場、それが東京である」という。延々とルポ
初月、「日本のシエ名は首都には無くて、地方にある」とも書く。この連
載の本音は「東京の忌まわしい実用主義、功利主義が地方に波及す
るのではないか」という懸念がある。大商業都市に向かった福岡はま
さしくその懸念が的中した、ということになろうか。

 久作の右翼的系譜を示す「近世快人伝」はその10年後、昭和10年
に書かれている。日本のファシズム化がニ・二六に向かう時代だ。

 久作は代表的な快人として四人を挙げている。東京の著名な人気
雑誌「新青年」での連載は常軌を逸脱していた。しかも三人は頭山満、
杉山茂丸(実父)、奈良原至と玄洋社系の福岡県出身者である。何か
「これでは田舎者の夜郎自大」と思われて当然の内容である。「新青
年」の編集者の水谷は、それが例えば頭山満を茶化したと受け止め
られかねず、右翼の襲撃を心配した。それに対して久作は全てのトラ
ブルの責任を引き受けると言って連載を認めさせた。

 久作の政治思想がどこにあったか不明な点が多いが、別に昭和維
新に加担しようとしたわけでもない。頭山満のおよそバカらしい逸話を
紹介している。久作が一番力を入れて書いているのは「奈良原至」で
ある。実際、全く無名の人物である。結局、久作は玄洋社を政治結社
ではなく損得勘定抜きの精神的共同体とみなしたのである。そのよう
な玄洋社こそ、幼少の久作にとって日常であった。久作を支配したの
は反功利主義の玄洋社の世界であった。遠山より一世代若い玄洋社
社員の葦津耕次郎が日中戦争に反対していたことは重要である。そ
れは日中戦争の本質は決して東亜新秩序ではなく、既得権益の確保
という功利主義のご都合主義の戦争と見抜いたからだ。頭山もその
日中戦争反対の芦津を支持していたという。

 近代功利主義からは遠く、また右翼的臭味を嫌われて夢野久作は
戦後、居場所を失ったのである。

 だが夢野久作がいかに居場所を失おうと、その文章を読み返すと
その視点のユニークさ、鋭さ、また小説の奇想天外さの魅力はまた
素晴らしいものがある。もし親が右翼の杉山茂丸でなければ、江戸
川乱歩など比較にならぬ偉大な幻想作家といわれただろう。ただ世
に出ることができたかどうかは分からないが。

 ★三一書房全集か?葦書房の著作集か?

 三一書房版で忘れ去られていた探偵作家を再評価したといえるのが
「著作集」である。さらに著作集は忘れ去られていた多彩な文章を収録
している。久作が単なる探偵作家でもなく複数の多面的な顔を持った、
マルチな作家である点を押し出した葦書房「夢野久作著作集」の意義が
そこにある。久作をかなりてってして研究し、資料を漁っている者でも、
初めて見る文章が多数収録である。新しい視点の久作がある。

 もし夢野久作に入ろうと思うなら葦書房版「夢野久作著作集」こそが
ベストであるということである。もちろん三一書房版から入ってもかま
わないけれど




 

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