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zoom RSS 星野仙一氏、平松政次氏の野球殿堂入り

<<   作成日時 : 2017/03/12 10:38   >>

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 このたび倉敷市出身の星野仙一氏、高梁市出身の平松政次(ひらまつせいじ)
両氏が野球殿堂入りを果たして岡山県民の喜びもひとかたならないものがある
。星野仙一氏は倉敷商業、明治大学、中日と選手歴をもっているが監督となって
からの偉業が光る。平松政次氏は岡山東商業での甲子園選抜大会優勝(今もっ
て岡山県高校野球、唯一の甲子園制覇)、日本石油での都市対抗野球優勝、橋
戸賞、その後すぐにシーズン途中に大洋ホエールズ入り、ヤクルトを入団一週間
以内で完封、ストレートとカーブだけの投球でしばらく苦労したがシュートを覚えて
からは通算与四球120のセリーグ記録の示すとおり、バッターの内懐をえぐるカミ
ソリシュートで大活躍、1970年は最多勝、沢村賞、1971年も最多勝に輝き、対巨
人戦通算51勝は歴代2位、長嶋茂雄も一割台に抑えた。戦後の甲子園優勝投手
でプロで200勝以上は平松氏のみ。その栄光は素晴らしい。

  1965年、選抜大会、決勝で岡山東商は戦後和歌山初の甲子園制覇を狙っ
た市立和歌山商業と当たった。初戦のコザ高校の圧勝から明治高校、小田義人
の静岡高校、しぶとい徳島商業と完封、36イニングス無失点、だか40イニング目
でついに市和商の攻略され、一点を失った。市和商の岡本喜平投手との投げ合
いだったが最後は三番、中島のタイムリーで平松の女房役の宮崎が本塁に突
入、クロスプレーだったがサヨナラ勝ちとなった。当日の試合の写真はあまり残っ
ていないが、山陽新聞特集記事で得られた。

2017年3月11日山陽新聞より

 1965年4月4日、選抜決勝で市和商相手に力投の平松投手

 
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 星野仙一氏だが、コメントを拝見してもむしろ野球人生での無念ささえ感じさせ
られる。平松政次氏は選手、高校から社会人、プロとして思い残すことのない活
躍ができた、という満足感があると思うが、星野氏の場合、倉敷商業時代、1964
年(昭和39年)夏、矢吹監督に率いられて夏の大会、最終の東中国大会決勝で
敗れ、甲子園に倉敷商を連れて行くという悲願が達成できなかったこと、これは
痛恨の悔いであるようだ。星野氏は単に選手時代よりその後の監督人生の貢献
評価されるのだが、日本シリーズは容易に突破できず最後の楽天で遂に念願を
達成した。星野氏は矢吹監督を「本当に厳しかった、徹底的に鍛えられた」と幾
度となく述懐している。個人的に昔、仕事の関係で矢吹監督が私の家に来てい
たのだが、星野とも言わないし仙一とも言わない、常に「こらぁ、センコー」であっ
た。矢吹監督を見たら明治の島岡監督も大した厳しさでもなかったようだ。

 1964年7月30日、東中国大会決勝で敗れ、涙にくれる倉敷商、右端、松岡弘、
右から二番目が星野仙一氏左から二人目、矢吹監督。(同じく山陽新聞より)

 
画像


 星野仙一氏が平松政次氏より一学年上、だがこの時期、周辺地域も含めて、
素晴らしい投手が輩出していた。岡山県では星野仙一、その下の学年で平松
政次、平松氏の同学年では松岡弘(倉敷商)、森安敏明(関西)、高松商業では
小坂投手、第一回ドラフト会議で阪神に一位指名の石床幹夫(土庄高校)、錚々
たる選手たちであった。

 岡山県の野球風土から見たら星野仙一氏、平松政次氏の野球殿堂入りは
素晴らしい誇リだが、現実の岡山県の野球は平松氏の全国制覇以来、優勝が
なく瀬戸内海沿岸では唯一夏の大会、未制覇という汚名をかぶり続けている。
勝てないのみならず甘さが目立つ。

 山陽新聞の特集記事で星野氏は

 『野球人生で倉商を甲子園に連れて行かれなかったことが一番の悔い』と今
でも言い切る。たしかに高校時代の無念さはその後のいかなる栄光でも補え
ず、癒せないものであるようだ。

 平松氏は

 『岡山東のセンバツ優勝から半世紀以上が過ぎており、そろそろ岡山県勢の
優勝が見たい。誰でも練習すればチャンスはある』

 1964年夏予選で倉敷商に2-11で惨敗したのが翌年の全国制覇のバネにな
たと平松氏は語る。一日600球を投げ込んだ。岡山県高校野球の復活をぜひと
も見たいものである。

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