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zoom RSS 一夕会、15年戦争に直結の陸軍軍閥暗闘の始まり

<<   作成日時 : 2017/02/23 13:01   >>

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 なぜ満州事変に始まる15年戦争が勃発し、日本の焦土化、無条件降伏
に到る戦慄の軍部の暴走が始まったのか。その起点をどこに置くかはさまざ
まな考えがあり得るにせよ、キーワードは陸軍軍閥の争い、その前提として
の一夕会だ、と考えていいのではないか。満州事変から日中戦争にいたる
狂気は陸軍軍閥の暗闘を考えずして何も理解できない。台湾出兵が近代
天皇制国家、日本の最初の外征戦争となったがそれ以後、日清、日露と
戦争に明け暮れた「尚武」の気質の軍国主義日本はここに至って、最終的
に誰に責任が帰するのか不明確という近代天皇制という窮極の無責任体制
によって軍部の暴走は助長されたのである。

 1929年、昭和4年5月19日、日曜日であった。この日の午後6時、九段の
靖国神社近くの料亭「富士見軒」に陸軍の壮年の代表的軍人が集まってい
た。多くは陸軍大学でのエリートであり、陸軍省整備局動員課長の東條英
機、歩兵第三連隊長の永田鉄山、参謀本部戦史課長の岡村寧次、さらに
土橋勇逸、根本博、沼田竹稼蔵などの面々であった。

 この会合は「一夕会」と名づけられた。別にガチガチの組織ではなく、「一
夕(いっせき)を楽しむ」という意味合いの和やかに近い雰囲気が本来であっ
た。

  小畑敏四郎、(その妹は船田中の妻)永田と岡村は陸士16期の三羽烏
と呼ばれていた。左が小畑。

 
画像


 しかし、この日からすでにその後の陸軍の暴走を伺わせる論議が飛び交
ったのである。「陸軍の人事を刷新し、諸政策を強力に推進するべきだ」、
「その5日前には懲戒で停職処分となった張作霖爆殺事件の首謀者の河本
大作に続けとばかりの「満蒙問題の解決を目指す」が合意された。人事に
ついては「荒木貞夫(陸軍大学長)、真崎甚三郎、林銑十郎の三人を守り立
て陸軍を正しい姿に立て直す」とも合意された。

 しかしこの日の最初の一夕会会合に出席しなかった面々では小畑敏四
郎、板垣征四郎、土肥原賢二、山下奉文、石原莞爾などのそうそうたる
壮年陸軍幕僚がそろっていたのである。

 この一夕会結成にいたる道程はじつは長く、最初は大正10年10月27日
、ドイツのバーデンバーデンでの永田鉄山、ロシア大使館駐在武官であっ
た小畑敏四郎、欧州出張中の岡村寧次による「人事刷新、派閥解消、総
動員体制の確立、軍制の改革」などについて話し合った会合が端緒であ
る。これは「バーデン・バーデンの密約」として知られている。

 これが契機となり、三人の帰国後も会合は続けられ、陸士15期から18期
までで会員を集めて永田鉄山、東條英機らも入っていた「二葉会」が設立さ
れた。人事の刷新で陸軍を支配していた長州軍閥がまず排除された。経済
は悪化の一途、東北を中心とする農村の疲弊も顕著で街には失業者があ
ふれていた。そこから一時的な大正デモクラシー、さらに中国における排日
運動、日本の権益の危機、これらが陸軍の壮年幕僚をして第一次大戦の
教訓も含めて総動員体制の確立が課題とされた。

 永田鉄山、東條英機、小畑敏四郎、などの有力メンバーを抱える一夕会
は次々とその目的を達成し、ほぼ陸軍の中枢を占めるに至った。

 しかし1931年、庄和年9月18日、「満州事変」が勃発した。これは満蒙
問題の解決に絶好と彼らには捉えられた。満州事変は石原莞爾、板垣征
四郎、清朝最後の皇帝の連れ出しに成功した土肥原賢二、満州事変のた
めの砲弾の国内からの輸送を許可した永田鉄山ら、実質的に一夕会のメ
ンバーらによって事変は始められ遂行された。

 続いて1931年、昭和6年12月13日、荒木貞夫が陸軍大臣、翌昭和7年
には真崎甚三郎が参謀本部長、林銑十郎が教育総監に就任した。

 皮肉なことに赫々たる成果のはずの一夕会が分裂を招くことになった。
その発端は満州事変前の「三月事変」、「事変勃発後の「10月事件」という
2つのクーデター未遂事件の失敗にあった。陸軍によるクーデター失敗が
連続したため永田鉄山は「統制ある合法的活動による陸軍の軍事国家体
制度」樹立へと転換した。

 他方、壮年陸軍幕僚だけによる総動員体制への国家改造に限界を感じ
た者たちは荒木貞夫、真崎甚三郎をトップに据えての国家改造を目指すこ
とになった。統制派と皇道派の分裂である。荒木貞夫は陸軍中枢を皇道派
でしめるという人事に出た。皇道派人事はさらに派閥抗争を激化させた。
幕僚の間でも総動員派の統制派、対ソ派の皇道派という亀裂も際立った。

 小畑敏四郎は「対ソ開戦」優先を、永田鉄山は日満経済ブロックによる「
総動員体制」の主張を行い、昭和8年6月の陸軍首脳会議関上でこの対立
は決定的となった。
 だが昭和9年1月に陸軍大臣、荒木貞夫は病気辞任し、後任陸相となっ
た林と軍務局長就任の永田は行動派の一掃をはかった。さらに昭和10年
7月、真崎甚三郎を教育総監から解任、更迭した。これらの人事は皇道派
の憤激を呼び、暗闘は激烈となった。これには民間右翼の西田税による
「統制撹乱の中心たる永田を先ず処断するに非ざれば他の一切の人事は
価値なし」とアジテーションを行った。遂に8月12日、皇道派の相沢三郎が
永田鉄山を斬殺した「相沢事件」まず暴発した。皇道は将校からみれば
永田鉄山こそ統制派の悪の中枢であった。

 最終的には翌年、1936年、昭和11年2月11日の二二六事件勃発。天皇
の怒りを買った皇道派は一挙に勢力失い、あとは「総動員体制」があるの
み、日本は戦争の深みにますますはまっていったのである。

 陸軍幕僚たちによる暗闘、しかし一貫して指摘できることはその思想性
の恐るべき狭隘さ、閉塞性、・・・・・・

 日本の陸軍の幕僚で世界に通用する高度な思想性を身に着けた人物
遂に一人として現れることはなかったということである。


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